《後編》究極の出世をもたらした奇跡の秘仏 三面大黒天

開運の極意

奇跡の秘仏 三面大黒天 ≪後編≫

三面大黒天との出会いが秀吉にもたらした数々の奇跡!

日本どころか、古今東西、世界史的にも類例のない驚異的な出世を成し遂げた人物、豊臣秀吉。三面大黒天に願を掛けて以降、秀吉の生涯には4つの大きな奇跡が起こり、歴史的偉業を成し遂げます。その奇跡を一つずつ解説していきます。

①織田信長との出会い

何を差し置いてもこの人物に仕えることがなければ、秀吉が天下人になる可能性はなかったと断言できるほど、最大のターニングポイントとなった織田信長との出会い。秀吉の生涯を綴った伝記『太閤素生記』にあるように、秀吉は尾張中村の百姓家の出身です。そして信長は、当時の常識に囚われず、出自ではなく能力主義で商人や農民からも人材登用を行った人物です。秀吉の竹馬の友であった一若が織田家の小者頭になっていたという幸運もあり、秀吉もまた小者として生駒の方(信長の側室)の屋敷に配属されたのです。

ここで有名な「信長の草履取り」の逸話が生まれます。生暖かい草履に不信を抱いた信長は、草履を尻に敷いていたものと疑い秀吉を睨み据えます。一歩間違えば即刻打ち首にあっても不思議ではないこの場面。『名将言行録』にはその時秀吉が「寒夜なので、御足が冷えていらっしゃるだろうと思い、背中に入れて温めておりました」と言ったとの記述が残っています。懐に入れて温めたとの説が有名ですが、いずれにせよこの返答が信長の興を得て、秀吉は足軽に登用されることになります。危機を乗り越えチャンスへと変える秀吉の真髄が最初に発揮された出来事でした。

 

良縁:絶大な力を持つ上司

②天下の良妻ねねとの出会い

尾張国の武将 杉原定利とその妻 朝日殿の次女として生まれ、後に叔母ふくの嫁ぎ先である浅野長勝の養女となった、ねね。秀吉との出会いを演出したのは、またも信長でした。鷹狩りの帰りに浅野長勝の屋敷に立ち寄った信長一行にお茶を出したねねを信長は大層気に入り、やがて秀吉に妻にするよう薦めます。この引き合わせを機に、家格の違いを乗り越え永禄4年(1561年)、二人は結婚するのです。しかし、ねねの実母の朝日は身分の違いを理由に最後まで反対し生涯二人の結婚を認めず、そうした周囲の反対と秀吉の身分の低さから、式自体も質素だったとされます。

二人の結婚は、当時としては珍しい恋愛結婚であったこと、そして当時は絶対的だった身分の差を乗り越えてのものだったことから、どうしても運命的なものを感じざるを得ません。

 

良縁:身分の差を超え、良き妻を得た

③金ヶ崎の戦いの殿(しんがり)志願

「金ヶ崎の退き口」あるいは「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれるこの戦は、秀吉が織田家中で頭角を現す最大の転機となりました。信長と秀吉、双方にとって九死に一生を得たと言っても過言ではない決死の戦いでした。当時、上洛し室町幕府の守護者、つまりは天下人に最も近いポジションにいた信長は、呼び出しに応じないことを口実に朝倉家を攻めるため永禄13年4月20日(1570年5月24日)、織田・徳川連合軍として3万の大群を率いて京都を出陣します。

元亀元年(4月23日に改元)4月25日に朝倉領に侵攻、その日のうちに天筒山城を落とし、翌日には朝倉景恒が籠る金ヶ崎城を開城させるなど、序盤は織田・徳川連合軍が優勢に戦を進めていました。しかし4月27日、信長の義弟 浅井長政率いる浅井家謀反の知らせが入ります。長政としても2年前に嫁として迎え入れた信長の妹 お市の方への思いと、長年同盟関係にある朝倉家の間で板ばさみの心境にあったようですが、いずれにせよこの裏切りによって織田・徳川連合軍は挟撃の危機を迎えます。ここで秀吉がしんがりを志願し、無事この窮地を乗り切り帰陣を果たし、信長は秀吉の貢献を称え黄金数十枚を与えたとされます。秀吉は撤退戦の途中で猿飛仁助率いる3,000人もの盗賊団に襲われましたが、頭領の猿飛を説得し配下へと迎え入れたことが、後の天下取りにも功労したと『清正実記』に記されています。ここでもまた危機を乗り越えチャンスを掴むという秀吉の真骨頂が発揮されたのです。

 

勝負運:”しんがり”という最も危険な任務に成功

④ 中国大返しの奇跡的行軍

天正10年6月2日(1582年6月21日)、秀吉の主君、織田信長は明智光秀の謀反により本能寺で討たれます。世にいう「本能寺の変」が起こった頃、秀吉は備中高松城を攻めていました。6月3日夜ないし4日未明に信長が斃れたことを耳にした秀吉は、激しく泣き叫んだものの黒田官兵衛の助言によって動揺から立ち直り、すぐに安国寺恵瓊を自陣に招き毛利方との停戦交渉を開始。4日には毛利輝元と和議を結び、直ちに明智光秀を討つべく全軍をまとめ上げ備中高松を立ち、6月13日、山崎にて明智光秀の軍と戦い見事に討ち果たします。備中高松(現在の岡山県岡山市北区高松)から山崎(現在の大阪府三島郡島本町山崎と京都府乙訓郡大山崎町の境)の約200kmの道程を3万もの軍勢を率いてわずか10日間で駆け抜けるという神速とも呼ぶべき進軍を成し遂げたことが、信長亡き後の天下人が誰になるかの決定打となりました。

秀吉はこの戦の3年後に関白の位に就き、北條氏を下したことで天下統一を果たします。

 

勝負運と良縁:チャンスを逃さない決断と奇跡ともいえる進軍を達成した家臣たち

三面大黒天が秀吉に授けたもの!

百姓の家に生まれ不遇の少年時代を送った秀吉が、三面大黒天と出会ってから僅か30年で天下人となりました。まさに世界に類例のない驚異的な出世栄達を果たしたと言えます。

「一仏礼拝によって三尊天の御利益を得られる」と伝わる三面大黒天は、合理性を好む秀吉にはとてもありがたい存在だったのでしょう。本来であれば拝顔も叶わぬような織田信長やねねという人物との出会い、幾つかの戦いで見せた奇跡的な勝負運、そして天下人となり200万石の所領と、全国から上納される金銀財宝の莫大な富。それらすべてを得たのですから。

三面大黒天が秀吉に授けた御利益は類例のない巨大なものでしたが、秀吉はそのご利益に漫然とすがったのではなく、天下人になるのだという固い信念があったからこそ、三面大黒天の力にあやかれたのでしょう。やはり、運を引き寄せるには自らを律することが必要なのだと思います。

 

良縁と勝負運で天下人へのステップを上がった秀吉公は最終的に莫大な富(金運)を得るに至りました。思うに引き寄せの法則の大成功例だと考えます。その触媒として大きく貢献したのがまさに三面大黒天というわけです。皆さんも自身を律する触媒として信仰できるものを見出すことも良いでしょう。

豊臣秀吉の三面大黒天を手に入れる!?

現在、豊臣秀吉の三面大黒天を復刻した像を手に入れることができます。
原寸大豊臣秀吉の三面大黒天(たまふり屋)
本物と同一サイズという原寸大モデル。圓徳院の開眼祈祷済みで守護本尊として祀るには最適な像です。
三面大黒天(圓徳院のお下げ渡し)(圓徳院公式)
圓徳院では三面大黒天像をお下げ渡ししています。現地でのご祈祷のみ。通信販売での対応は無い模様。
10cmサイズ豊臣秀吉の三面大黒天(たまふり屋)
お下げ渡しの像と同じものです。現地で受ける場合はご祈祷が施されますが、通信販売用はご祈祷付きではありません。

幸運メンタル研究所主宰 アントニオTK

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昭和39年生まれ。 平成の始まりとともに風水や易学をテーマにした開運グッズの開発に携わる。師は易学界の重鎮 故・髙島崇圓。風水学、観相学、九星気学界の大御所...

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