究極の出世をもたらした奇跡の秘仏 三面大黒天《前編》
奇跡の秘仏 三面大黒天 ≪前編≫
圓徳院に今なお伝わる太閤秀吉の念持仏!
京都市東山区にある圓徳院は、北政所ねねが夫の豊臣秀吉亡き後、伏見城の化粧御殿やその前庭を移築し移り住んだ地に建っています。ねねは、ここから秀吉の菩提寺として建立した高台寺へ通って晩年の19年間を過ごしました。また圓徳院にはねねを慕う多くの大名や禅僧、当時の文化人が通い、あたかもサロンのような様相を呈していたようです。
(画像:圓徳院の大黒堂、商売繁盛を祈願する企業や人が絶えない)
ねね亡き後、高台寺の塔頭寺院の一つとなった圓徳院には、石組みの名手とされた賢庭が作り後に小堀遠州が整えたとされる国指定名勝の枯山水庭園(北庭)、方丈にはかの長谷川等伯の描いた襖絵(重文)が収められるなど、ねねが四季折々に楽しんだであろうものが今も残されています。
そして境内にある三面大黒天堂(京都御苑から移築)には、秀吉が生涯念持仏として所持した三面大黒天の尊像が祀られています。
豊臣秀吉と三面大黒天!
圓徳院に伝わる『三面大黒天縁起』には次のような記述が残っています。
“豊臣秀吉公が若い頃、三面大黒天の塑像を見て、請うて心に念じて言った。「私が、もし立身出世して、名声を天下に伝えられることができるなら微塵になれ。そうでなければ形を全うせよ」と言って投げたところ、微塵となった。秀吉公は大いに喜び、仏工に命じて尊像を彫刻させ、常に崇拝し、天下を掌握するに至る”
この逸話から読み取れることが幾つかあります。秀吉が最初に見た塑像は、粘土などを自然乾燥させて作った像で、投げて砕け散るのは当然と言えます。そして仏工に彫刻させた件も、当時の秀吉の身分や境遇を思えば、とても高名な仏師に制作を頼めたとは思えません。誰が制作したのかは今となっては推測する術もありませんが、その穏やかで品格ある顔付きから、少なくとも確かな腕を持つ人物が作ったものと思われます。
塑像に比べ、投げても容易に壊れにくい木彫像としたことで、秀吉は立身出世の願掛けを半ば強引に行ったとも言えます。
少なくとも、その信念がなければ、農民が天下を掌握するなどという奇跡中の奇跡は、ゆめゆめ叶わなかったことでしょう。
比叡山型三面大黒天と秀吉所持像の違い!
秀吉が所持した三面大黒天について圓徳院にある立札には次のように記されています。
“三面大黒天は秀吉公が出世時代に念持仏とした尊像であり、北政所がこの地に移され今日にいたっている。大黒天、弁財天、毘沙門天の三面を合わせ持ち、一仏礼拝によって三尊天の御利益を得るという誠に秀吉公らしい信仰である。今日大黒天は、福の神、弁財天は学問、教養、毘沙門天は勝利、子宝、等の神として、多くの信仰を集めている。堂及び表門は御所の鎮守大国殿を移築したものである。”
「一仏礼拝によって三尊天の御利益を得る」――秀吉の合理性が伺われます。
三面大黒天が秀吉に授けた奇跡的立身出世!
豊臣秀吉(1536ないし1537~1598年)の活躍した時代は応仁の乱(1467~1477年)から始まったとされる戦国時代のかなり後半です。この時代の身分制度は非常に重要なものとされ、身分の低い者が高い者に意見をするなどとんでもないことで、逆らえば即切り捨てられるような時代でした。
最下層の農民から文字通りトップ中のトップへと上り詰めた驚異的な出来事。それがすべて三面大黒天との出会いから始まったとしたら――その御利益は恐るべきものと言えましょう。
後編では、三面大黒天を所持して以降、秀吉が成し遂げた数々の奇跡をお伝えします。
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